ペテロの葬列

宮部みゆきの『ペテロの葬列』がドラマ化され、今日から放送がスタートする。
http://www.tbs.co.jp/petero2014/

本作は「杉村三郎シリーズ」の第2弾。巨大企業グループの広報室に勤める平凡なサラリーマン杉村三郎が今回も事件に巻き込まれてゆく。
第1弾の『名もなき毒』は、昨年7月に放送された。主人公の杉村三郎は今作と同様、宮部みゆきが「杉村三郎役­にもっとも近いとイメージ」する小泉孝太郎が演じていた。

主題歌はシンガソングライター近藤晃央(こんどう あきひさ)の『心情呼吸』。

<キャスト>
杉村三郎…小泉孝太郎
間野京子…長谷川京子
杉村菜穂子…国仲涼子
手島雄一郎…ムロツヨシ
橋本真佐彦…高橋一生
柴野和子…青山倫子
坂本啓…細田善彦
迫田とよ子…島かおり
森信宏…柴俊夫
今多嘉親(回想)…平幹二朗
水田大造…本田博太郎
園田瑛子…室井滋
田中雄一郎…峰竜太
佐藤一郎長塚京三

      プロローグ

 後になって、誰が誰だったか思い出しきれないほど多くの人びとから、私は尋ねられた。あのとき何を考えていたか、と。あるいは、何か考えることができたかと。
 いつも、私はこう答えた。「よく覚えていないんです」
 問われて答える機会が重なるにつれて――私の答えを聞いてうなずき、同情し、労ってくれる人びとの顔を、彼ら自身も気づかぬほど素早くよぎる好奇と猜疑の色を目にすることが重なるにつれて、私は狡賢くなり、ちょっと間を置いてこう言い足すようになった。
「言葉の綾じゃなく、頭が真っ白になってしまってね。何か考えていたのかもしれませんが、今では思い出せないんです」
 そして、私もまた彼らと一緒にうなずいてみせるようになった。そうすることで、彼らの顔をよぎった好奇と猜疑の色が、すぐには戻ってこないようにすることができると学んだからである。共に、心地よい安堵を分け合うことができるとわかったからである。
 あのとき何を考えていたか。
 事態が収拾されたばかりのころ、私は、私に向かってそう問いかけ、答えを引き出す資格がある人物は、一人しかいないと思っていた。妻である。七歳の娘は年齢制限でひっかかるし、そもそ私事の詳細を知らない。こんなケースでは、知らせないことが親の義務でもある。
 あのとき何を考えていたか。
 案に相違して、妻は私にその問いを投げなかった。彼女を悩ませていたのは、私には思いがけない疑問だった。
「あなたばっかり、どうしてこんな目に遭うのかしら」
 私は、その場で思いついたことを言った。
「僕は飛び抜けて幸運な人間だから、神様が、たまにはバランス調整をしないと不公平だと思うんじゃないかな」
 妻は微笑した。何となく点けっぱなしにしていた深夜のテレビに映った古いB級映画のなかで、気の利いた台詞を聞いた――というくらいの微笑みだった。
「そんな上手なことを言うなんて、あなたらしくない感じがする」
 妻は少しも納得していなかったし、同時に、このことではどれほどしつこく私を問い詰めても、彼女の求める答えは返ってこないと諦めているようでもあった。
「もう忘れようよ」と、私は言った。「事件は片付いたんだし、みんな無事だった」
 そうねと、彼女はうなずいた。瞳は少しもうなずいていなかった。
「君はあのとき何を考えていたか」と私に問う資格を持つ人物は、実はもう一人いた。私はその人物を除外していたというより、畏れと遠慮と後ろめたさに追われて、その人物から逃げていた。
 妻の父、私の義父の今多嘉親である。今多コンツエルンという一大グループ企業を率いる会長で、財界の要人で、今年八十二歳になるが、若き日に〈猛禽〉と称された鋭い眼光と、その眼力の源泉である頭脳の切れにはいささかの衰えもない。私の妻の菜穂子は、彼の外腹の娘だ。
 菜穂子はいかなる形でも今多グループの経営に関わってはいないし、将来を関わる可能性はない。会長の娘という権威は身にまとっても、権力は持たない立場だ。一方、菜穂子の夫である私は、会長の婿という権威さえ身につけていない。ただ結婚の条件として、そのころ勤めていた小さな出版社を辞め、今多コンツェルンの一員となり、会長室直属のグループ広報室で社内報の記者兼編集者として働くことを提示され、私はその条件を呑んだ。結果、義父は私の雲上人のような上司になり、私は今多コンツエルンの末端の社員となった。だから今多嘉親には、身内としても上司としても、私に質問する資格があった。
「ああいうとき、人間は何か考えられるものだろうかね」
 正確には、義父は私にそう尋ねたのだった。
「申し訳ありません」と、私は答えた。
 義父はちょっと顎を引いた。
「誰か君に謝れと言ったか」
「いえ、ですが……」
「そんなにあわてて謝るところを見ると、さては君、あのバスのなかで、菜穂子と桃子以外の女の顔でも思い浮かべていたんだな」
 桃子は私と妻の一人娘の名前である。
 私がB級映画の台詞のようなことを言おうと狼狽えているうちに、義父は笑った。
「冗談だよ」
 そのとき我々は義父の私邸の書斎で、机を挟んで向き合っていた。このやりとりを聞いているのは、書架を埋め尽くした大量の本と、書架の隙間に飾られている数点の美術品だけである。
「実際、何か考えられるものだったか? 君には失礼かもしれないが、私は純粋に好奇心で訊いているんだ」
 義父の目には、確かに知的好奇心の発露を示す光が宿っていた。
「会長はいかがですか」と、私は問い返した。「これまでの人生で、命の危険にさらされたことがおありでしょう。そんなとき、何かお考えになりましたか」
 義父の目が、光を宿したまま瞬きをした。
「そりゃまあ、あったさ。我々は戦争世代だからな」
 第二次世界大戦の終盤、義父は徴兵されて従軍している。だがこれまで、どんな機会にどんな場で尋ねられても、それについて詳しく話したことがない。自分には語るほどの経験がない、というのが本人の弁だ。
「しかし、君が巻き込まれたような事件と、戦争とは比較の対象にならないよ。だからこそ好奇心がうずくんだ」
 私は義父の顔から目をそらし、義父の背後にある、見事な革装の世界文学全集の背表紙へと視線を投げた。
「会長は以前、私にこうおっしゃったことがあります。殺人行為は、人がなし得る他者に対する極北の権力行使だと」
 二年ほど前、私たちグループ広報室のメンバーが被害を受けたある事件の際に、義父は怒りを隠さずそう述懐したのである。
「ああ、言ったな」
「そんなことをするのは、その者が飢えているからだと。その飢えが本人の魂を食い破ってしまわないように餌を与えなくてはならない。だから他人を餌食にするのだ、と」
 義父は、机に肘をついて指先を合わせた。ここではよくこのポーズをとる。すると私は、神父に向き合う信者のような心地になる。
「先日の事件でも、私はそうした権力行使の対象にされたことになるわけですが」
 拳銃を突きつけられ、言うとおりにしなかったら射殺すると脅されたのだから。
「何故か、あの犯人からは、会長がおっしゃったような〈飢え〉を感じなかったのです」
 義父は私を見つめている。
「だから怖ろしくなかったというわけではありません。私も、一緒に人質になった人たちも怯えていました。犯人が本気でなかったとは思いません」
「現に撃ったんだからな」と義父は言った。
「はい」
「君には、あの結末が予見できたか」
 かなり長いこと世界文学全集を見据えて考えてから、私はゆっくりとかぶりを振った。それからやっと、義父の顔を見た。
「事態がどう転がるか、まるで予想ができませんでした。しかし、あの結果になったときには、それが当然のように感じられました」
 落ち着くところに落ち着いた、と。
「目の前で起こった出来事ですが、あまりにも呆気なかった。瞬きする間に終わっていたような気がします」
 発生から収拾まで三時間余りの事件だった。国内で発生したバスジャック事件のなかでは、最短で解決した事例だという。
「子供の自転車を……見ていました」
 訝しげな義父に、私は微笑した。
「バスの駐まっていた空き地の隅に、乗り捨てられていたんです。グリップとサドルが赤い、小さな自転車でした。乗降ドアのガラス越しに、私にはよく見えました」
 今にも、ふいと持ち主の少年か少女が現れて、赤いグリップに手をかけ、スタンドを蹴ってサドルにまたがりそうな気がして、たまらなかった。

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