私の履歴書(鳥羽博道-17)

 「日本の喫茶業も立ち飲みの時代が来る」という予見を欧州視察から得て、その事をずっと思い続けながら十年の歳月が流れた。その間に、高度経済成長の道を歩み続けてきた日本は初めてのオイルショックに遭遇した。
 知り合いの商社マンが「会社員の可処分所得が減っているんですよ」と教えてくれた。
聞けば、実質所得が目減りしているという。私は「今、サラリーマンはきっと大変なはずだ」と思った。
 かつてはほとんどの人が嗜好品や贅沢品として飲んでいたコーヒーだが、十年が過ぎ、もはや必需品となり、朝、一杯のコーヒーを飲まないと仕事が手に付かないという人もいるほどコーヒーは普及していた。サラリーマンを助けないといけない。今こそヨーロッパで見た立ち飲みでコーヒーを安く提供しなければならないと思った。
 ちょうどその時、山手線の原宿駅前に九坪(一坪は三・三平方メートル)の店を持つ方がドトールコーヒーを訪ねて来た。寿司店を経営していた先代のご主人が亡くなり、娘婿にあたる方が、この場所でコロラドを経営したいと希望してきたのだ。しかし九坪では置けるテーブルも少なく、いくら一等地とはいえ、すぐ売り上げの限界が来るのは目に見えていた。
 私は十年近く温めてきた思いを、そのオーナーに話すことにした。かつてパリで見た立ち飲み喫茶について詳しく伝え、自分としてもまだ一度もやった事が無い業態だが、人通りも多く、必ず成り立つはずだと、よく説明した。
 さらに私は「もし店が失敗したら、投資したお金はすべて私どもが補償し、その上で、この店は周辺の相場の三倍の家賃で私が借り上げます」と申し出た。そうすれば、仮に新業態店が失敗しても、ご家族の方々は生活に困らなくなるからだ。
 するとその方は「いや、そこまでの補償はしなくていいです」と言ってくれた。「鳥羽社長の言うことは理解できる。ぜひやりましょう」という事になった。
 これまでコーヒーの立ち飲みといえば、寒風の中、コートの襟をポマードで光らせたサラリーマンが、駅のホームに立ち、売店で買ったあんパンをコーヒー牛乳で流し込むような、わびしいイメージが一般的だった。
 立って飲む事がむしろかっこいいという状況を作らなければいけない。そうでないと、人のプライドを傷つける事になると思った。そこでコンセプトを「さりげなく小粋、立って飲む事をファッションにする」と定めた。
 私は、その頃コーヒー豆の納入で取引のあった有名ホテルの方に、いいデザイナーを紹介してもらい、その人に自分の考えを伝え、一緒になって設計をした。当時業務用カップ、スプーンは二百円位だったが、人の心を豊かにしたいとの思いからカップは一つ二千三百円、スプーンは千七百円の高級品を使う事にした。
 肝心のコーヒーの値段をどうするか。サラリーマンが経済的な負担なく、毎日コーヒーが飲める値段とはいくらだろうと考え、「百五十円」という切りのいい数字がふっと浮かんだ。一杯百五十円で売る事に決めた。通常の喫茶店の、およそ半値だった。


---日本経済新聞2009年2月18日